お茶でも飲みながら

突然、意識不明で病院に担ぎ込まれ、脳腫瘍と診断され、手術を経て5年近くになる。その後、幸いにして再発もなく、後遺症もほとんどない。

この手の病気に罹るとどうしても生存率という言葉が気になるが、そろそろ5年生存率クリアも目前である。

この間、柄にもなく感傷的になり色々なことを考えてきたが、今の心境というか考えを徒然に書き連ねたいと思う。

この間、入院生活やネットなどを通じて知り合った同じ病気を抱える仲間が数名ほど命を落とした。しかも、皆20代や30代前半の若い人たちだ。

自分もあと少し腫瘍の位置がずれていたら彼らと同じ運命を辿っていたかもしれない。

その紙一重の差を生んだものは単なる偶然なのか、何らかの力が働いたのかは人智の及ぶところではないが。

脳腫瘍のことを思う時、よく頭に浮かぶのが、元広島の抑えのエース津田恒美だ。彼は32歳という年齢で若くして亡くなったが、野球人としての実績、脳腫瘍のため全盛期に引退せざるを得なかったこと、その壮絶な闘病生活から今でも人々の記憶に残り、死ぬことで何かを残せた人だ。俺のような凡人は死ぬことで何かを残せる訳ではない。

人の生死に何か意味があるのだとすれば、死んだ者には死んだ者なりの意味が、生き残った者には生き残った者なりの意味があるのだろうと思いたい。

俺は幸いにして生きている。だから、生きている人間にしかできないことをしたいと思う。俺は脳腫瘍という病気のお陰で、自分を最大限に表現する手段を得ることができた(言い換えれば、個性という言葉になるだろうが、個性という言葉は嫌いなので使わない)。

今現在、病にある人が一番望むのは、普通の生活に戻れるのかということだと思う。病気で死という問題に直面して人生の深淵を覗いている人たちに、ヒューマニズムのようなことを語ることはしたくない。まして俺より、遥かに重病の人もいる。

俺は脳腫瘍のお陰で得た自己表現の手段を使って、出来る範囲のことをやっていきたい。とはいっても、当り前の日常生活を語るだけだが。

しかし、この当たり前のことが、実は当たり前じゃないということは、同じ経験のある人なら分かってもらえると思う。

結局、死と向き合うことで、初めて生を実感として捉えることができ、生きていることの有難さを感じることが出来た。当り前のことが、当たり前じゃないということが実感できた。そいうことを伝えられたらと思う。

自殺という道を選ぶ人も多い世の中で、生きているという事実だけに有り難さを感じられるということは幸せなことだと思う。

だから無理して頑張ろうとか、生き甲斐を持とうとか気張らなくてもいいんじゃないだろうか?

もっと肩の力を抜いて生きてることを楽しめばいい。もっとも、それが難しいことであることは百も承知してはいる。不幸や困難というのは、いつも背後から忍び寄るようにやってくるから。ただ、少なくとも自分が生きていることで、自分の身近な人は悲しい思いをしなくて済む。

確かに病気をしてから1日1日を充実したものにしたいという思いも強くなったし、自分なりにやりたいことも見えてきた。しかし、そんなものは、生きることの本質とは違うものだと思う。

生きられるだけ生きたら死ねばいい。「生きてるだけで丸儲け」なんて言葉があるが、まさにそう思う。

あとは死に方の問題だけを考えたい。お茶でも飲みながら。